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★ELECTRIC SUMMER Biography★
Chapter1:
ELECTRIC SUMMER Biography 1995~1999 (in U.S.A)


Chapter 1 Part1:
ELECTRIC SUMMERは1995年アメリカ、コロラド州デンバーの大学で出会った日本人留学生4名で結成された。
メンバーは湯田利浩(V)、福田蒔人(G)、豊島隆文(B)、高久和重(D)。
リーダーはKAZU(D)。曲は主にMIKY(G)、TAKAFUMI(B)が担当。皆ただの友だちだった。KAZUとTAKAFUMIは共にそれまでギター以外の楽器はやったことがなく、2人ともドラムとベースを担当することは挑戦でもあり、努力も必要とされた。
MIKYはなんとなく、ギターをやることができたが、それはただ曲をたくさん作っていたからだった。最初は3人で遊び感覚でスタジオ練習したりしていたが、すぐにオリジナル曲を作り始めた。
当時は当たり前の様に、ラジカセにカセットテープで録音して曲の出来を確かめていた。
1995年12月某日
いつもの様にMIKY、KAZU、TAKAFUMI、でバンド練習をしていた。
曲もあるし、ボーカルが欲しいねと話しになって、MIKYの友だちだったYUDAを連れてきて歌わせてみた。テンポのよいパンクナンバーにYUDAはいきなり「ちんこ」「まんこ」「ちんこ」「まんこ」と絶叫し、ボーカル試験を無事通過した。
1996年2月16日(Fri)
ダンスパーテイにて初ライブを行う。当時の記録によれば、「めちゃくちゃすごい演奏で、感じた」とあり、「中西部で1番かっこいい」とまで書かれている。
曲目は1.あいつはカメラマン / 2.サムソンとデライラ / 3.キャデイラック / 4.Standing / 5.Cafe Song / 6.ESPRESSO COFFEE GIRL。
時代を感じさせるメモとして同年の2月25日(Sun)に、当時のWarp TourでHi Standardがコロラド州のどこかに来ていたと記録されている。
Chapter 1 Part2:
実はこの頃はバンド名がまだELECTRIC SUMMERではなかった。「カメラマン」という名前であった。学校内のパーティで演奏する程度だったので、MIKYが勝手に付けたバンド名で活動していた。実際にバンド名が「ELECTRIC SUMMER」となるのは、この年の暮れにBluebird theaterで演奏する事が決定してからである。

1996年4月3日(wed)の日記にはこう記されている。
「バンド練習はよかった。すげぇグルーブ感だった。曲は@キャディラック Aカメラマン Bカフェ・ソング Cサムソン&デライラ D彼女の白い胸 Eエスプレッソ・コーヒー・ガール。ラグビーの練習と誕生日パーティで今日はとてもいい1日になった。楽にいこう。昼間の悩みは昼間のことさ。こうでもしなきゃやってられないよ。」
これだけでは、全く何があったのかはよく分からないが、バンドの楽しさに興奮した若者が4人居たことは確かである。
そして友だちになったばかりの僕らは純粋に仲が良かった。お互いに面白い奴らだと思いあっていた。次回はそんなエピソードを紹介する。えっ、そんな話はいいから早くライヴの事とか書けって!?違うんです。エレサマの魅力は音楽から離れた生活に非常に影響されているので、まあ気長に待っていて下さい。あと1年後にはライヴ漬けの日々で、転がり続けるのも楽じゃないって事がわかる筈です。
Chapter 1 Part3:
1996年4月10日(wed)
「バンドはうまくいった。「エスプレッソコーヒーガール」とKAZUの新曲「スピリッツ」をやった。ただ、ちょっと中学生臭かったので、俺がコーラスで “父さん、母さん、ごめんなさい”と入れることにした。回転で登場したいぐらい、すがすがしい春の夜だった。風がなまら気持ちよかった。練習の後、ユダの部屋でオレンジを食べた。そして「ランチャーミルク5351」について話し合った。本当に自分がかっこいいと思ったことをやればいい、という。それが力を持つのは自分以外のメンバー3人の言葉が鋭いからだ、とユダは言う。おれは半分人生をあきらめていたのかもしれない。20年しか生きてないのにあきらめて、何かに賭けようとしていなかったのかもしれない。何かどうしようもない夜だ。ユダに歌詞がおもしろいと言われた。でも、蒔人くんが好きなブルーハーツと同じスタイルで勝てるはずはないとも言われた。何かどうしようもない夜だ。困った。だけど気分はいい。楽しい。少しびびって怖いけど。」
一体何をこんな真剣にバンドについて当時の僕らは話していたのか、さっぱり思い出せないし、「ランチャーミルク5351」が何のことなのか、曲名なのか、バンド名なのか、思想なのか、宗教団体なのか、それとも、ただ、ユダの口車に丸め込まれダメ出しされただけなのか。いずれにせよ、演奏力も伴わないのに、自分たちのスタイルと精神力の構築を目指していたことは事実だ。
1996年8月28日(wed)
「新曲「法律」がうまく完成しそうだ。ユダは風邪。俺も風邪気味だったので、隆文からイソジンをもらった。あいつと一緒にこの間初めて行ったストリップは、なんだかアメリカのダークサイドを見たような気がした。こんな時に思い出すなんて具合が悪い証拠だ。デンバーには、まだまだたくさんのストリップがあるようだ。いずれにしろ金がなきゃ行けない。大変だ!!ネズミが出た。小さい。ユダによると、小公女セーラはネズミにごはんをやって可愛がっていたそうだ。そういやセロ弾きのゴーシュも、ネズミの子供の病気を治してやってたな。ブルーハーツもドブネズミみたいに美しくなりたいって言ってた。」
1996年9月13日(fri)
「スープに浮かんだお前の空虚な心。
今日スタジオの窓の外で、メキシカンの女子校生が踊ってた。カメラマンの練習の時だ。フッ切れたのさ。もう。ぐちゃぐちゃでいこう。「レッツゴーDIA」は楽しい曲だ。バンドプレイはめちゃくちゃ良かった。飛んだ。回った。今度、学校の外でやるかもしれない。かずが色々とデンバー市内でライヴをやってる場所を調べてる。アメリカ大好き!I LOVE AMERICA!もちろん、日本も。Gibsonのギター。兄ちゃんの葉書。キース・リチャーズに憧れて、かっこよすぎる。俺はどこに行くんだ。向かっているんだ。わからない。静かな週末の金曜日。世界は回りつづけている。」
この日の翌日14日に学校主催のフェスティバル(学祭みたいなもの)があり、そこで学校側がプロのバンド、“モンキーサイレン”、を呼んで風船やラズベリーパイやポップコーンとペプシに混ざって演奏させていた。要するに八王子大学の学祭に地元出身のファンキーモンキーズが出るみたいなものだ。そこで、俺たちは怒った。というか、お前らなんかに負けないぞと、俺たちの方がかっこいいぞと、勝手にモンキーサイレンを敵視して自分たちの出番がくるのを待っていたのであります。
そしてその日の日記にはこう記されていたのでした。
1996年9月14日(sat)
「FUCK!!SUCK!!YOU!!ライヴは大成功。俺は暴れた。余りの皆さんたちのくだらなさに。最後に終わりたいぼくの心は4階から飛び降りても生き延びるんだろう。ちんぽはぼくのFavorite word。結局のお祭りじゃない。たしかにあの瞬間、あの時、おれは生きていた。実感した。」
一体何が言いたいのかさっぱり分からないが、何かとても興奮する出来事がライヴであったのだろう。きっとデンバーの大空に向かって大声で“ちんぽ〜!!” とユダが絶叫したんだと思う。教授も生徒もかわいいアメリカンボーイズ&ガールズも見ちゃいけないものを見てしまったのかもしれない(さすがに脱いではいないと思うけど)。
とにかく、この秋の出来事が、自分たちも海外で戦える、通用するんだ、とサッカー日本代表選手のように自信を持った日だったのだろう。
楽しくやっていたんだね。エンジョイしてたんだね。仲良かったんだね。
ちなみにこの頃ニューヨークの中学校に通っていたナベJEEPはドラムに興味を持ち始め、1996年10月にRASPUTIN(今も現役)が結成された。 RASPUTINのノートによると、「1996/10月、コピーバンドとしてRASPUTIN結成。倉内(g)、矢沢(g)、山口(b)、渡辺(dr)。最初にコピーした曲はnirvana。当時渡辺はスティックを持ってなく、ハンガーを使って叩いてた。みんな悲しいほど下手だった。」
次回はいよいよBlueBird Theaterでのライヴのこと、初めてアメリカのライヴハウスでやった時のことを書いちゃいます。
続く・・・